「災害と地域社会と、ご遺族と…」

※写真は全てクリックすると拡大されます。

宮城県女川町に行ってきた。

田村さんご夫婦と震災モニュメントの前で

コロナ禍初期、リモートで出会った一般社団法人 健太いのちの教室の田村さんご夫婦。
愛息子の健太さんを津波で亡くされた経験から法人を立ち上げ、防災の啓発活動をされていてお話を伺ってきた。

モニュメントの碑文

健太さんは七十七銀行の行員で、津波の避難指示が出た際、上司の指示で13人の同僚と一緒に銀行の屋上に避難するも…30分後には屋上を津波が飲み込み、健太さん含む12人が犠牲となった。
そして8人は現在も行方不明なのだそうだ。
女川は昔から津波や地震の被害が多い街で、土地の人にとっては津波の際に高台に逃げるのはごく当たり前の事。
何故、上司の指示が屋上だったのか…

七十七銀行の災害対策マニュアル

銀行の災害対策マニュアルで走ってすぐの裏山が指定されていた事が分かり、それを知ってお二人はとても苦しまれた。
銀行の裏の高台には女川町地域医療センターという地元の大きな病院があり、そこに避難された方は助かっていて、そこまで逃げるのに全速で走れば1分…

白い建物が七十七銀行、高台の上が病院

つまり、上司の判断がマニュアルに則っていたら絶対に助かっていた健太さんの命。
実際に案内していただきながらお話を伺っていて、頭と心がぐちゃぐちゃになって本当に苦しかった。

女川町地域医療センター

 

病院入口の柱

 

津波の到達地点

 

被災時、病院2階から撮影

 

2011年3月11日。
津波の被害から11年半・・・

病院から。中央の白い建物辺りに当時、七十七銀行があった

 

病院の下から。写真を撮った場所は既に7M以上盛り土がされている

 

盛り土される前の状態。現在のほぼ倍の高さ。

写真の様に、病院の前は盛り土で高さが造られ、女川駅前も復興に向けた再開発が進み、街の雰囲気も様変わり。
観光客目線で言えば、いわゆる「映えスポット」も沢山出来た。
海の幸が美味しい、本当に綺麗で静かな漁師町に「お洒落」がプラスαされた感じだ。

女川駅

 

女川駅から海へ続く商店街「シーパルピア女川」

未来に向けて・・・
というと聞こえは良い。
でも、過去は実際にあって、その事実は消えることは無い。
そして津波も地震もきっとまた起きる。
そしてそれはいつ起きるか分からない。
田村さんご夫婦はこんな悲しい事が2度と起きない様に、その事実から逃げず、しっかり背負って、
訪れる旅人にこの町の過去を伝えて学びにしてもらえる様に、
新しく住む人達にも過去を「自分事」にしてもらって災害時の行動を常に意識してもらえる様に、
熱心に活動をされている。

女川町地域医療センターにあるモニュメントの碑文

でも・・・
地域社会には、あまりの苦しみから津波の被害を忘れたい人も居る。
また観光による町おこしを考える「町」は辛く悲しい過去を表に出すのをきらって、目立つ場所へのモニュメント設置を認めず、「銀行」も起きた事実に真摯に向き合っているとは言えず、むしろネガティブなイメージ払拭に余念がなく…地域社会が、残された遺族の皆さんの想いに寄り添い、起きた事実を共に背負っているとは、逃げずに事実に正面から向き合っているとは僕には思えなかった。

理想と現実。
とても歯痒く、とても難しい。

でも・・・

病院と港との距離感

災害時のマニュアルも、最新の調査で作られたハザードマップも、意識して見ていなければ「その時」全く、何の役にも立たない。
「特殊詐欺」も「認知症」も同じだ。
他人事の社会では、当事者の訴えは中々響かない。
自分が当事者になった時に後悔しても、遅い。
表現のチカラで他人事の社会を自分事の社会に変える。
僕の目標。

田村さん、弘美さん、ありがとうございました。
今度は「いのちの農園」に伺いますね。
そしていつかお二人のお役に立てる様に、頑張ります!

「いのちの広場」のモニュメント

 

※長文を読んでいただき、有難うございました。

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